弱かった熊商野球部が甲子園に出場した経緯や阪急ブレーブスで活躍した事など、その当時の賞状や写真も見せていただき、同年代の方々はその当時が思い出されたととても喜んでおいででした。
そのお話の全文を写真とともにご紹介いたします。
昭和24年に卒業しました、原田考一です。 85歳になりました。 小学校は熊本市内の蹟台小学校へ通っておりました。 その頃から野球が好きで、草野球はもちろん、近くの白川でよく石投げをして遊んだものでした。 その石投げのおかげで野球の基礎が出来たのではないか、と思っています。 (右写真)関西熊商同窓会での原田さん |
当時の食糧事情は悪く、からいもに米粒・・・といった時代が続き、体力の限界もありました。
それに満足な用具もなく、はだしで練習したこともあります。
バッティングでは、健軍電車(現:熊本市電)の道路を超え向こう側の家の二階建て瓦屋根まで打球を飛ばすことが度々ありました。
それが一番の思い出です。
今の金属バットにボールだったら場外ホームランの数も増え、怪我人が出たのではないでしょうか?
そう思うとぞーっとします。
入学してから二ヶ月した頃からチームも勝ち試合が多くなり、他校からも注目されるようになってきました。
当時の九州では、済々黌がずば抜けた強さを誇っていました。
そんな中、秋には熊商も互角に戦えるようになり期待が持てるまでに前進。
春の選抜野球の出場校が1月末に発表され、昭和22年春の選抜に済々黌・熊商・小倉中学の三校が九州代表として選ばれました。
熊商野球部に入部してわずか半年で甲子園出場が決まったことは幸いでした。
当時の交通の便は悪く、甲子園までの道のりは大変なものでした。
国鉄は各駅停車しかなく、済々黌と仲良く豊肥線で別府に行き、関西汽船で神戸へ向かいました。
途中の瀬戸内海は爆撃を受けた日本船のエントツだけがあちこちに浮いて、なかなか船が進まず十数時間かけてやっと神戸港に着きました。
空襲で神戸の六甲山の山々が茶色に焦げていたのは今でも思い出されます。
また、食糧事情も最悪で米・味噌持参です。
着いた宿はといえば高野連の指示で大阪 心斎橋近くのバラックの建物。
天井と部屋は板で仕切っただけ…とてもゆっくり休む所ではありませんでした。
幸い、先輩の計らいで宝塚に宿ることなり先輩の有り難さに感謝しました。
一回戦は広島商業と対戦、5対2で勝利を収めました。
が、球場の広さに圧倒されながらマウンドに立つと捕手までが遠く感じられ、気持ちの高ぶりも治まらないままでした。
試合が終わりやっと地に足がついた感じでした。
そして、二回戦は徳島商業に敗れました。
熊商時代の野球の実績が認められ、阪急ブレーブスのピッチャーとしてスカウトされプロ野球の世界に入りました。
選手生活11年、セントラルリーグ審判15年……といろいろな経験を致しました。
“球場から球場への旅がらす”厳しいことの連続でしたが私にとっての人生の開花した期間でした。
球団としての思い出は年間15勝したこと、サヨナラホームラン、そしてピッチャーとして連続三塁打を打ったこと、これはまだ日本記録として残っています。
本日は同窓生の皆様とお逢いできて嬉しい限りです。
熊商野球の甲子園出場を祈念してこれにて失礼致します。
ありがとうございました。
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